こんばんは、朝起きると八ヶ岳が雪化粧、今月初めの日差しが嘘のように冬はもうそこまで来ていますね。
さて、十三の思い出というタイトルで地名を思い浮かべる方はきっと大阪にゆかりがおありでしょう。年齢を思い受かべるのが普通の方、人名を思い浮かべるのは名探偵コナンのファンですね。
今回出てくるのは十三(じゅうそう)と読み、大阪の一大ターミナル阪急梅田駅から二つ目の駅前の地名です。私が大学4年生の頃まで、十三の駅裏には戦前からの姿そのままの木造の大衆酒場が長屋のように軒を連ねていました。卒業間近の2月の終わりに、スワヒリ語専攻の恩師と親友の3人でそんな酒場のひとつで送別会を開いたことが懐かしく思い出されます。LED全盛のこの時代に、裸電球のような薄暗い照明の中なんだかよくわからない酒のようなものとつまみのよく煮込んだ何かがやけに美味しく、卒業後もぜひもう一度行きましょうと言って別れたものです。
悲しいことにそのすぐ後にその酒場通りは不審火による火災で全焼、今では再開発されているようです。その時によほど気に入ったのか例の親友は大阪で就職し、十三に住むようになりました。私は京都の大学院に進学したのですが、十三までは阪急の特急で安く行けるので、ちょくちょく十三に飲みに行ったものです。
そんなある日、例の親友とチェーン店の居酒屋で軽く飲み、さあもう一軒行こうと店を出たところで謎のおっさんに絡まれました。酔っているようで何を言っているのかほぼわからないのですが、しきりに「俺はアパッチだった」というのです。アパッチというと皆さんは何を思い浮かべますか?アメリカの先住民、ネイティブアメリカンのグループのひとつが有名ですが、彼がネイティブアメリカンにはとても見えないし、私はそのネイティブアメリカンの名称に由来して名付けられた攻撃ヘリコプターを思い浮かべました。「おっさん、アパッチって、ヘリに乗ってたの?戦時中の話?」と聞くと、「おう、戦争だ、俺はアパッチだぞ」と言います。とても軍人には見えないし、第二次大戦当時に攻撃ヘリなどあるはずもないのにいい気分に酔っていた私は彼を歴戦の軍人と思い込み、よくわからない話は続きます。
例の親友は翌日仕事があったので、そこで別れ、私は謎のアパッチとふたりで飲みに行くことになりました。前回のコラムでは当時の自分のコミュ力を自画自賛してしまいましたが、酔った時のコミュ力は絶望的、お互いに何を話したかすらよく覚えていません。朝までしたたか飲んで支払いの段になるとアパッチは急に小さくなり「俺は金はねえ」と言いました。「何言ってんだよ、おっちゃんと話せて俺は楽しかったよ、それだけで満足なんだから払わせようなんておもっちゃいねえよ、ここは俺が持つからさ」というと、「あんたいい人だなあ。俺はこんなに優しくしてもらったのは初めてだ」と言ってアパッチは泣いていました。それだけは印象的で鮮明に覚えています。始発の電車で京都に帰り、また変なおっさんと出会って面白い経験が増えてしまった、などと呑気に思っていました。
時は流れ、私は就職し、腰を痛め退職し、実家での療養生活が始まります。起き上がることもできず、囲碁を始めるまではネット漫画ばかり読んで過ごしました。ある日、衝撃的な作品に出会い、十三のアパッチの思い出が急に蘇ります。その漫画は、戦後の焼け野原の大阪の街で戦災孤児たちがたくましく協力しながら生きる物語でした。子どもたちはゴミを集めて鉄屑屋に売ったり、店や畑からかっぱらった食べ物を闇市に流したりしながら頑張って日々を生きるのですが、地元の顔役に目をつけられて危機に陥ります。そこで登場するのが真のアパッチでした。
当時大阪には、戦前にさまざまな理由で日本に来ていた朝鮮の人たちが、戦後の日本の厳しい社会で生き抜くために作った集落があったそうです。彼らは空襲を受けて焼け落ちた軍需工場の跡地から鉄などの金属を掘り出して生計を立てていました。当然米軍や警察の見張りをかいくぐっての作業、命懸けです。サッと現れて一瞬で仕事をして引き上げていく様子から、彼らはアパッチと呼ばれるようになりました。漫画の子どもたちはアパッチのボスに気に入られ、アパッチの一員として活動することで難局を乗り越え成長します。
「ああ、俺はあの日、このアパッチと飲み明かしたんだな」と気づいた時、感に絶えない気持ちに襲われました。漫画の中では、復興が進むと子どもたちはそれぞれ工場や会社での仕事を見つけ、アパッチたちは故郷に帰ることになります。世話になったボスや仲間を港まで見送り、アパッチたちも故郷での暮らしに希望を抱いての別れとなります。しかし、その船の行き先は朝鮮半島北部でした。登場人物たちは荒地に放り出され、さらなる苦難に直面します。日本に残ったメンバーも偏見の目に晒され、成長した子どもたちとも離れ離れになります。
作品の中だけでなく当然現実の世界でも、戦後の日本で在日朝鮮人として生きる日々は容易ではなかったことでしょう。かくいう私もメディアなどの影響か、かなり最近まで朝鮮の方々に良い印象を持っていませんでした。しかし、実際に接するひとりひとりは、ただ毎日を懸命に生きるひとりの人間で、私と何にも違いはありません。偏見とは、これほど無意識のうちに刷り込まれ、不用意に他人にむけてしまいかねないものなのだと恐ろしく思いました。
良い締めくくりが思いつかないので、無理に綺麗にまとめようとせずにこれで終わります。成人式の日に出会った白杖を持った酔っ払いとの思い出は、また別の機会に。
ネクストコナンズヒント:そのとき彼は電柱と壁の間に挟まっていた
(文責:関口)
戦後の混乱の様子を感じることができました。ありがとうございます。